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日本美術と西洋美術がまったく異質であることは多くの人が感じることしょう。それは美しさについてのとらえ方が文化の次元で異なることによります。ここでは「美しさ」について美術評論家、日本の伝統楽器の演奏家と日本を代表する作曲家との対談などをザ・グランの考えとともに取り上げました。
「自然」を自らのものとして取り入れること・共存することで生まれる美しさ、また対象物単体の美しさだけではなく、様々な物、事象、環境が組み合わさった状況全体をとらえる美しさについて、下記では取り上げています。
住まいづくりにおいて、美しさのとらえ方は建築家・設計士のセンス・感性により大きく異なります。西洋のお城のような絢爛豪華なゴージャスなものがある一方で、枯山水のように砂利を大海原の波に見立てるような家づくりをすることもあるでしょう。
これは、どちらが美しいかという結論がでる話ではなく、どちらが好きか?自分の生活スタイルにあっているか?という話ですが、美しさについて一義的に言葉で表現・定義することが難しい以上、それ(施工事例など)を見て共感できるかどうかが大切だと考えます。
高級注文住宅ではRC住宅など設計の自由度の高さをウリにしている住宅ビルダーも多いですが、ザ・グランでは木造を得意としています。また、こだわりの木材の使用にあわせ、天然石など異素材を取り入れることで、その空間に味わい、深みなどを演出しています。
美しさへのこだわりがあります。
「いつまでも見ていられる、飽きのこないもの」こそを、美しさと考えます。
たとえば、使う素材の違いよって、それぞれに美しい厚みや長さが異なります。
また重厚感を出すために厚みをだそうとすると、厚すぎることでの圧迫感がでてしまってり、他素材とのバランスがくずれてしまったりなどおきたりします。
素材という部分をみながらも、全体からもとらえなおし、空間の中で、存在感をもつそれぞれがうまく共存できるバランスを探ります。
いつ見ても美しいと思える空間演出を心掛けています。
右上の写真は当社のお客様のお部屋で撮らせていただいた1枚です。この日は午前中は晴れていましたが、午後から曇ってきました。さっきまで差し込んでいた光が消えて、部屋が少し暗くなってきたタイミング。一息入れるためのティータイムショットです。ちなみに写真右上の窓から見えるのは金華山。写真ではわかりずらいですが岐阜城が見ます。
自然素材の風合い豊かな石張りの壁と板張り天井は、部屋に差し込む光の量や空気感と作用して、微妙な陰影をつくり、複雑な変化を生みだします。
もしもっと晴れていたら、夕暮れだったら、雨が降っていたら・・・天気や時刻、季節によって、部屋の雰囲気は大きく変わります。
この何気ない景色、生活のなかで通り過ぎてしまうようなワンシーンに美しさがあるように思います。
なにに美しさを感じるか、素敵だと感じるかは世代、生活文化により、大きく違いますが、当社の施工事例をみて、すこしでもご共感いただけるものがあるようなら幸いです。
(引用元:日本人にとって美しさとは何か 高階秀爾 筑摩書房 p90 東と西の出会い 表現様式の原則を比較する)
【日本絵画として狩野永徳<洛中洛外図>、<源氏物語絵巻>などをとりあげ、西洋絵画としてヤン・フェルメール<デルフト眺望>、ファン・デルウェイデン<聖母子を描く聖ルカ>を取り上げたうえで】
西洋絵画が画面に対して垂直な奥行き性を強調するのに対し、日本絵画は図面に平行な平面性を特徴とするのです。
このような日本と西欧の表現上の差は、両者の芸術に対する哲学の違いによって説明することも可能でしょう。西欧芸術は「主体」─この場合は画家─を絶対のものとして、すべてを主体の視点の下に従属させようとする。日本の伝統においては、それとは逆に、客体─描かれたもの─が尊重され、それぞれの対象にふさわしい視点が採用されます。さらに言えば、一つの視点による描き方は、一つの中心を絶対的な価値とする西欧の一元的思想に対応し、また同一の画面の中に複数の中心を共存させる考えは、互いに矛盾するさまざまな価値の共存を認める日本文化の多元性に並行するものなのです。
建築がその生活者の視点から理想的な空間をくみ上げることであるとすれば、それは日本的と言えるのかもしれません。一方で建築家の作りたい創造物としての建築空間は西洋的と言えそうです。ザ・グランの場合、生活者が居心地の良い空間をつくることを目指したいという意味では、この上の文章においては日本よりの感性ということになりそうです。
(引用元:ひとつの音に世界を聴く 武満徹対談集 晶文社 p57 <1965年3月「世界」掲載>)
【薩摩琵琶古曲研究所長、辻靖剛氏と日本を代表する現代音楽家、武満徹との対談】
辻:
自然の中に飛び込み、すばらしい修練の結果生まれて来た音は、やはり美しい真のある音であろうと思う。ただ人間は欲があってその美しい音にいろいろの邪欲をぬりつける。そこに真実の音を破棄してしまう。人間というものは心身を鍛えながら自然にかえり清々しい気持ちで琵琶を弾く。そこに美しい琵琶の音が生まれてくると思うのです。
武満:
私、それはいままでの東洋のすべてのもの、それが最後の、そして、はじまりの地点だと思います。日本の音楽というより、禅とか宗教であったり、哲学であったりするわけですね。
ヨーロッパの場合、人間の作るものというのは、それは明らかに自然と対立するものとして考えられているわけですね。そうでしょう。城とか、あらゆるもの、道を作るにしてもなんにしても、自然と対立するし、そこに人間というものを確立しようとする。ところが日本では、これは自然と人間が一体となる。自然の前に人間を主張するのではなくて、人間はやはり自然であるという、そこに到ろうとする。そいつが違いますね。私はそれが本質的な違いだと思うのです。
自然を取り入れたデザインをよく採用します。特に岐阜や愛知のような豊かな自然があるなかでの建築なのでなおさらかもしれません。美しいとはなにか?、言葉で説明することは難しいですが、「いつまでも見ていられる、飽きのこないもの」に美しさを感じることが多く、またそれが自然にちなんだものが多いと感じています。
(引用元:日本人にとって美しさとは何か 高階秀爾 筑摩書房 p165-166 実体の美と状況の美)
アメリカも含めて、西欧世界においては、古代ギリシャ以来、「美」はある明確な秩序を持ったもののなかに表現されるという考え方が強い。その秩序とは、左右相称性であったり、部分と全体との比例関係であったり、あるいは基本的な幾何学形態との類縁性など、内容は様々であるが、いずれにしても客観的な原理に基づく秩序が美を生み出すという点において一貫している。逆に言えば、そのような原理に基づいて作品を制作すれば、それは「美」 を表現したものとなる。
<中略>
だがこのような実体物として美をとらえるという考え方は、日本人の美意識の中ではそれほど大きな場所を占めているようには思われない。日本人は、遠い昔から、何が美であるかということよりも、むしろどのような場合に美がうまれるかということにその感性を働かせてきたようである。それは「実体の美」に対して、「状況の美」とでも呼んだらよいであろうか。
<中略>
例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」という一句は、「古池」や「蛙」が美しいと言っているわけではなく、もちろん「水の音」が妙音だと主張しているのでもない。ただ古い池に蛙が飛びこんだその一瞬、そこに生じる緊張感を孕んだ深い静寂の世界に芭蕉はそれまでにない新しい美を見出した。そこには何の実体物もなく、あるのはただ状況だけなのである。
本文中の「日本人は、何が美であるかということよりも、どのような場合に美がうまれるかということに感性を働かせてきた。」というこの一文は、日々の日常生活感覚として、とても共感できます。そんな美しい瞬間がたくさんうまれるような空間づくりをしていきたいものです。
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「ザ・グラン」は岐阜県と愛知県をメインにハイエンドな高級注文住宅を展開している一級建築士事務所です。「美しい住まい。上質な暮らし。」をコンセプトに専属職人と大工による自社施工の家づくりをしています。
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「本当に価値ある住まいとはなにか?」を探求し続けるザ・グラン若原代表の建築への思い、本物へのこだわりに共感し、高級注文住宅の新しいあり方について考えるため、Zenken株式会社レジデンス編集チームが当サイトを立ち上げました。
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(本サイト名「○△□ 岐阜の高級注文住宅」は禅僧の仙厓義梵が描いた「○△□」<出光美術館蔵>に感じる単純さ、ユニークさ、本質志向、自由さなどのイメージにちなんでいます。)